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リニューアル

 投稿者:管理者  投稿日:2017年 5月16日(火)14時37分37秒
  日露戦争研究会掲示板閲覧の皆様

 ご無沙汰しております。8年ほど本掲示板を放置しておりました。やっと再開させていただきます。なにかありましたら、ご連絡ください。

名城大学都市情報学部 稲葉千晴

http://www2.meijo-u.ac.jp/~chiharu//rjw/head.htm

 
 

作戦立案図

 投稿者:ひで  投稿日:2013年10月19日(土)10時04分4秒
  はじめまして。
30年前に我が家の倉庫の古い箪笥から桐でできた漆塗りの箱が出てきました。
中を見ると地図のような物と賞状のような物がありました。
箱書きには私の祖父の名が書かれてありました。
当時健在だった祖父の従兄弟に話を聞くと
1・祖父は日露戦争中大本営の陸軍作戦立案担当者だった
2・旅順や203高地など当時の陸軍の作戦はほとんど祖父の案が採用され表彰された
3・見つかった物は作戦を考えた時の原本である
との事でした。
このような物に資料的価値があるのでしょうか?

 

zkTuvADysboh

 投稿者:qGSicHLEo  投稿日:2012年 7月 5日(木)16時43分17秒
  At last! Someone with the isnghit to solve the problem!  

GUERRILLA'S PROPAGANDA

 投稿者:神田  投稿日:2012年 6月13日(水)15時33分14秒
  戦争は嫌だけど、部隊は知りたい…
マニア必見
http://srhostil.org

http://srhostil.org

 

日露戦役記念碑について

 投稿者:菖蒲和弘メール  投稿日:2011年 3月14日(月)23時09分25秒
  はじめまして。
熊本県で「日露戦役・明治37年戦役・第六師団」について調査しています。熊本県では主に明治41・42年に「日露戦役記念碑」が建碑されています。そして、明治33年5月18日の内務省令第18号「形像取締規則」、明治39年5月の「日露戦役忠死者建碑併招魂社合祀手続」が大きく関係している、ことが分かりました。
今年末には、「熊本縣日露戦役記念碑一覧」を完成させたいと思っています。
 

第1軍司令部の集合写真について

 投稿者:岡 康二メール  投稿日:2010年12月13日(月)21時40分39秒
  初めて投稿します。
私の曾祖父は日露戦役の際、第1軍の司令部に属していました(主計将校)が、その編成の際に日本国内で撮ったと思われる第1軍司令部の集合写真が古いアルバムから見つかりました。
中央に黒木司令官。その右側に邦彦王、続いて工兵部長の児玉少将、参謀長の藤井少将が写っておられます。また、邦彦王のすぐ後ろに兵站監の渋谷少将、黒木大将の左隣に参謀の栗田中佐が立っておられます。

背景の上部に日本の瓦屋根が映り込んでおり、大きな松もあることから、どこか大きな邸宅か会所の庭で撮ったのではないかと思いますが、日付や場所が記載されておらず不明です。

何とか撮影日時と場所を知りたいと思い、図書館などで日露戦役に関する古い写真帳を確認しましたが、載っておりませんでした。また、防衛省の防衛研究所にも尋ねましたが、わからないとの返答でした。

第1軍の集合写真について、何か少しでも知っておられる方がありましたら、是非ともお教え頂きたいと思い投稿しました。また、何か調べる方法がありましたら、合わせてお教え頂きたくお願い致します。

 

 投稿者:ハト  投稿日:2010年12月 5日(日)23時43分23秒
  明治の軍人は 勇ましいかった  

片岡和久の最終学歴

 投稿者:片岡和久  投稿日:2010年 8月12日(木)11時59分42秒
  片岡和久、昭和44年3月14日生:岩本愛吉に師事、灘高等学校卒業、東京大学医学部医学科卒業、北里大学獣医学部獣医学科卒業、東京大学大学院博士課程修了、ガーナ大学卒業。医学博士。医師、獣医師。細菌学専攻。専門はエイズの研究。ノーベル賞候補。現在、東京大学医科学研究所教授・片岡和久  

二〇三高知の戦いについて教えてください

 投稿者:三浦一郎メール  投稿日:2009年 8月26日(水)12時32分21秒
  日露戦争研究会 御中

はじめまして。
私は日本の甲冑武具について研究している者です。
現在、この立場から長篠・設楽原の戦いについて執筆しています。
その中で、同じ凄惨な戦いの一例として、二〇三高知での戦いを紹介したいと思います。
私が調べました原稿は下記のとおりです。
文字数にも限りがごいますので、要約したかたちで結構です。
ご面倒とは思いますが表現・歴史上の誤りがございましたらご教授ください。

もっとも、近代においても、このような無謀ともいえる戦いが行われている。その一つが、日露戦争の二〇三高地の攻略である。日本軍は、ロシア軍が築いた要塞に対して第一次から第三次までの三度にわたる攻撃が行い、第一次の攻撃だけで戦死者五千人、負傷者一万人以上を出したといわれている【5】。日本軍は、さらに第二次・第三次の猛攻撃をかけて、最終的には二〇三高地を攻略することになる。その目的は達成されたが、あまりにも大きな犠牲といえるのではなかろうか。そして、この無謀なまでの戦いの様子は、小説や映画となり、今も語り継がれている。

宜しくお願いします。
 

松山のロシア兵捕虜

 投稿者:近藤元治メール  投稿日:2007年 3月23日(金)10時41分21秒
  松山出身の小生は、京都府立医大第1内科教授を2000年に退官しました。いま、松山出身の近藤元久(1903年アメリカに渡り飛行機の免状をとり、帰国直前に1912年10月に事故で亡くなっている)の足跡を調べる途中、日露戦争における松山のロシア兵捕虜の扱いに関心を持ちました。桧山真一氏の「ロシア人俘虜が見た日本人女性」の文章にたどりつき、その中の参考資料にある「旅順・松山の歌」(レンガート/才神時雄編著)を含めたロシア兵捕虜と松山の女性につき調べております。情報をいただけますようお願いいたします。  

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